三島由紀夫「弱者ぶる奴は徹底的にいじめるべし」
弱い者をいじめるべし
どんな強者と見える人にも、人間である以上弱点があって、そこをつっつけば、もろくぶっ倒れるものですが、
私がここで「弱い者」というのは、むしろ弱さをすっかり表に出して、弱さを売り物にしている人間のことです。
この代表的なのが太宰治という小説家でありまして、彼は弱さを最大の財産にして、弱い青年子女の同情共感を惹き、
はてはその悪影響で、「強いほうがわるい」というようなまちがった劣等感まで人に与えて、そのために太宰の弟子の田中英光などという、
お人好しの元オリンピック選手の巨漢は、自分が肉体的に強いのは文学的才能のないことだとカンチガイして、
太宰のあとを追って自殺してしまいました。これは弱者が強者をいじめ、ついに殺してしまった怖るべき実例です。
ここでは除外して、別に不具でも病人でもないのに、むやみと、
「私は弱いのです。可哀想な人間です。私をいじめないで下さい」という顔をしたがる人のことに限定しましょう。
こういう弱者をこそ、皆さん、われわれは積極的にいじめるべきなのであります。
さア、やつらを笑い、バカにし、徹底的にいじめましょう。
弱者を笑うというのは、もっとも健康な精神で諸君の友だち一人、自殺志望者がいるとします。彼がある日、青い顔をして、フラリと君をたずねて来ます
「そうなんだ。僕はもうこの苛酷な生に耐えられない」
「バカヤロウ。死ぬなら早く死んでしまえ」
「そう簡単に死ねればこんなに悩まないんだが」
「死んじまえ。死んじまえ。何なら、僕の前で毒でも呑んでみないか。僕はまだ、服毒自殺っていうのを、見たことないから、ここで一杯やりながら、ゆっくり見物するよ」
「君なんかに僕の気特はわからんよ」
「わからん奴のところへどうして来るんだ」
そのうちに君は、こいつが、ひたすらいじめてもらいたくて、君のところへ姿を現わすのに気がつきます。
「貴様みたいな閑人と附合うヒマはねえや。出てゆけ。もう二度と来るな」
と追い出してやります。でも大丈夫。死ぬ死ぬというやつで、本当に死ぬのはめったにいない
彼は命拾いをし、君は弱い者いじめのたのしみを味わい、両方の得になる。
最後の一行の理論すき
しょっちゅう失恋して、またその愚痴をほうぼうへふりまき、何となく伏目がちで、何かといえばキザなセリフを吐き、
冗談を言ってもどこか陰気で、「僕はどうも気が弱くて」とすぐ同情を惹きたがり、
自分をダメな人間と思っているくせに妙な女々しいプライドをもち、悲しい映画を見ればすぐ泣き、
昔の悲しい思い出話を何度もくりかえし、ヤキモチやきのくせに善意の権化みたいに振舞い、いじらしいほど世話好きで…
こういうタイプの弱い男は、一人は必ず、諸君の周辺にいるでしょう。こういう男をいじめるのこそ、人生最大のためしみの一つです。
これまんまワイのことでびっくりしたわ
しかしもう撲っても無駄ですから、今度は言葉でいじめます。
「お前みたいなヒョーロク玉は、何度女に惚れたって、フラれるのが関の山だよ。
鏡でも見てよく研究しろよ。しょっちゅう泣きッ面をして、カラッとした顔をしていたためしがない。
せめて金でもあればいいが、安月給で昼飯はラーメソばっかり食ってるくせに。
それに何だい、インテリ面して、読めもしないくせに、原書なんか抱えて歩いて。週刊雑誌のほうがよっぽど気がきいてらァ。
お前みたいな人間のカスは、早くガス管でもくわえてお陀仏したほうが世のため人のためだよ」
俺じゃん
クーデター起こす気なんか無い
切腹したかっただけ
所謂新型欝に関しては頑張れとか言うてええねんで
あいつら規則正しい集団生活させたら即治るしなんやねんってのが医者の言葉やで
今年ぐらいに死んでる年齢か
「架空の自分」とは、要するに、はしたないことを口走らない自分、卑怯未練なこと仕出かさない自分である。
いいかえれば、人にそう思ってもらいたいところの自分、自分でそう思いたいところの自分である。
すなわち、「架空の自分」は、社会的承認の必要と自尊心とに支えられている。
「架空の自分」なんかない方が、「現実の自分」の欲求を満足させることができて都合がいいわけだが、それでは、社会的承認を失い、自尊心が傷つく危険があるわけである。
以上のことから、次のように結論できる。すなわち、自己嫌悪は、その社会的承認と自尊心が「架空の自分」にもとづいている者にのみ起こる現象である。
つまり、たとえば、無能な人間が自分を有能だと思いたがるとき、あるいは、卑劣漢が自分を道徳的だと思いたがるとき、その落差をごまかす支えとなるのが、自己嫌悪である。
自衛官に罵倒されて涙目で腹切ったのではないですか?
面白オジサン扱いされてそう
石原慎太郎でまにあってます
そんないやらしいことはしないという高級な水準の社会的承認と自尊心を断念し、その欲望の満足を得るか、それとも、その欲望の満足を断念して高級な水準の社会的承認と自尊心を維持するかの二者択一である。
この二者択一に直面して、いずれをも断念したくない、花もダンゴも欲しいという欲張りが使う詐術の一つが自己嫌悪である。
彼は、現実のレベルでその欲望を満足させ、その満足を味わった自分を非自己化する。
すなわち、別のレベルに「真の」(実は架空の)自分をおき、現実の自分の行為を「真の」自分には関係も責任もない行為と見なし、あたかもどこかほかのところから襲いかかってきたもののように、その行為を「真の」自分の立場から嫌悪する。
その嫌悪が強ければ強いほど、「真の」自分はますます高潔となり、現実の自分はますます「真の」自分から切り離され、遠ざけられる。
その行為は、たしかに自分のやったことには違いないが、そのとき自分は「どうかしていた」のであり、「ついやってしまった」のである。
つまり、「真の」自分から発した行為ではないというわけである。かくして彼は、いやらしい欲望の満足を味わうことができ、かつ、高潔な自分のイメージを維持することができる。
岸田秀「ものぐさ精神分析 自己嫌悪の効用 太宰治『人間失格』について」より抜粋
やっぱこいつ頭ええわ
引用元: http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1450328132/
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